腑に落ちない気持ちで両手を軽く伸ばす。
「いいえ、気にしないでください。連絡もしないで来てしまったのは私の方なんですから」
連絡なんてしたら聡は絶対に会ってはくれないだろう。だから、わざと突然来たのだが。
「本当に、何でもありません。また出直します」
言いながら考える。
やっぱり、いきなり自宅を訪問するなんて、無謀な行いだったのだろうか? 逢いたければ駅舎へ行った方が確実なのだろうか。駅舎への行き方は知っている。だがきっとそこには、美鶴が居る。
美鶴には会いたくない。
軽く唇に力を入れる。
また別の手を考えなければ。
そんな里奈に、母親は腰を浮かせたまま。
「でもそんなの悪いわ。やっぱり、聡に連絡を取ってみますよ」
「そんなの悪いです」
「でも」
そんな押し問答がしばらく続き、里奈はなんとか相手を説得する。
私が家にいるなんて知ったら、金本くんは絶対に帰ってこないと思う。
里奈に説得され、再び腰を落ち着けた母親は、少し考え込むような相手の表情にふと首を傾げる。
「それにしても、どうして聡に事前に連絡もせずにこちらにいらしたの?」
「あ、それは」
金本くんに逃げられるのが困るから。なんて事は口が裂けても言えない。
「私、金本くんの携帯の番号とかって知らなくって」
「あら、そうなの」
途端、母親はスッと立ち上がる。そうして少し離れたところに置いてあった携帯に手を伸ばし、しばらく弄ってから里奈の方へ差し出した。
「聡の番号よ」
「え?」
「どうぞ、次からは連絡してからいらしてください。またこんなふうにすれ違いになってしまっては困りますからね」
「えっと、でも」
金本くんの許可も無しに勝手に教えてもらってもよいのだろうか?
躊躇う里奈に、相手はさらに強く携帯を差し出す。
「あら、気になさる事はありませんよ。田代さんなら信用できますもの」
「はぁ」
田代さんなら。
それってどういう意味だろう?
その言葉に複雑な思いを抱きながら、里奈は結局番号を見てしまった。
「ありがとう」
智論の言葉に運転席の男性は優しい笑みを浮かべ、美鶴にも軽く笑いかけてからブレーキを離した。ゆっくりと動き出した車は、やがて美鶴と智論を残して走り去っていった。車が交差点を左折するのを確認してから、智論は振り返った。
「入りましょう」
小さな一軒家だった。壁は木質で窓にはレースのカーテンがかかっており、中は見えない。入り口にはこれまた木で作った手書きの看板がかかっており、赤と白のチェックの布で可愛らしく装飾されている。カントリー調とでも言えばよいのだろうか。洋風で、庶民的な雰囲気の、お家と表現したくなるような建物だ。駐車場には車が三台。時間的にランチは終わっているから、混んではいないだろう。もっとも、建物も小さいから、それほど大量の客を収容できるワケではないのだろうが。
お洒落な店だな。
なんとなく不愉快な気持ちを携えながら、智論の後に続いた。
思った通り、それほど広い店ではなかった。奥には主婦らしい女性が四人で一つのテーブルを囲んでいた。仕事をバリバリとこなしているというような雰囲気ではなかったが、皆それぞれに小奇麗な身姿をし、薄くではあるが化粧もしている。
美鶴の母親とは全然違う。下町のアパートで暮らしていた頃に近所で見かけた、すっぴんで、洗いざらしの髪の毛を適当に結び上げ、ヨレヨレのTシャツにジャージのような上下で、エプロンをしたまま近くの公園で子供と砂場遊びをしているような母親ではない。
違う世界だ。
不愉快さはさらに増した。座る事を促す智論には無言を返し、むっつりと腰をおろした。注文を取りに来た店員にも、メニューを指差すだけで一言も口を開かなかった。
ついてなんて、来るんじゃなかった。でも、慎二の話、だなんて言われたら、無視なんてできないよ。上手くひっかけられたのかな? だいたい、なんで私の噂が学校で広まってるなんて事を知ってるのよ?
ひょっとして、噂を流したのは、智論さん?
思わず目を見張る。水の入ったコップを握る手が震えそうになる。氷の入ったそれが、悴むほどに冷たく感じられる。
智論さんが? まさか、そんな。でも霞流さん、直接噂を流したのは女だって。
唇が乾く。
智論さんは、霞流さんの許婚だ。私に、霞流さんから離れろなんて事を言ってきた人でもある。ひょっとして智論さん、私と霞流さんを引き離したいんじゃない? 霞流さんに傷つけられるから離れろだなんて、そんなのは言い訳で、ただ単に私と霞流さんを引き離したいだけなんじゃない? それでも私が耳を貸さないから、だから智論さんは、私に嫌がらせを。
考え出すと、妄想は止まらない。だが、疑惑を口にする勇気もない。
相手が何を考えているのかわからないのに、むやみに問い質して逃げられるのも癪だ。それに。
チラリと上目遣いで相手を覗き見る。
生成りのブラウスはシンプルだが、首元のゴムシャーリングと小さな花柄の刺繍が女性らしい。上に羽織るライトグレーのカーディガンは無地で、きっと上質なのだろう。七分か八分丈の袖の下からほっそりとした手首が覗いている。左腕には時計。ピンクのベルトが可愛らしい。
可愛いな。
目の前の智論は瑞々しくて清楚で、とても美鶴が考えるような腹黒さを持ち合わせているような人とは思えない。腹黒いのはむしろ、自分だ。
気持ちが塞ぐ。
モテるんだろうな。さっきの男性だって、楽しそうだったし。
そこで美鶴はふと瞬きをした。
さっきの運転手、誰?
「あの」
考える前に、口を開いてしまった。言ってから、バカな真似をしたと後悔したが、智論は小首を傾げてこちらを見てしまった。
「なに?」
うぅ、最悪。智論さんの交友関係なんて、私には関係ないじゃん。根堀葉堀聞くなんて、どこかの小煩いオバンみたい。
だが、まっすぐに見てくる智論を前に、もはや引く事はできない。
「あの、さっきの人って」
「え?」
「あの、その、さっき車を運転していた人」
聞き取り難い声でしどろもどろと口を開く美鶴に智論はキョトンと目を見開き、だが聞かれている意味を理解するや、ニッコリと笑った。
「あぁ、さっきの人ね」
不機嫌な顔など見せず、だがなんとなく曖昧な笑みを浮かべながら、入ってきた店の入り口へ目を向けた。
「彼はね、慎二のお兄さん」
「え?」
お兄さん?
「知多に居る長男じゃないわ。慎二のすぐ上の兄、塁嗣よ」
霞流慎二が三人兄弟の末っ子である事は知っている。一番上の兄は知多で父親と一緒に製糸だか紡績だかの仕事に従事している。二番目の兄は。
美鶴はハッと息を吸った。改めて智論と向かい合う。そんな相手にゆっくりと頷く。
「そうよ、聖美さんが浮気をしてできた人」
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